昭和五十七年十月四日 朝の御理解
御理解第三節 「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ」
守り守りの精進によって、その教会の比礼が違うというわけでありましょうね。早く起きると遅く起きると、信者の参詣の早い遅いにかかわるといったような表現で教えておられる。結局取次者が一心に神様へ向かう、その精進の度合いが、その教会の度合いと言っても、まあいいと思うんです。そういうことを教えておられるんだと思うんです。
ところが、ただ精進しておるというだけで助かることにもない。その精進の目当てというか、その焦点が違うと、言うならいくら精進しておっても、それが働きにも比礼にもならんのです。
お互いの信心の場合でもそうです。同じ日参なら日参をしておるというても、その焦点の相違がおかげの相違になってくるんです。だから、いよいよ私共の信心の焦点というものがね。確かなところに焦点をおいての朝参りであり、早い遅いにかかわると言われる。その、いわゆるおかげが違ってくるね。間違いのない言うなら焦点をおいての、お互い信心でなからなきゃなりません。
本当にこのくらいなことが分からんのかと思うほどに感じることがありますけれども、まあ、いっこう焦点を、その、間違えたというか。まあ、長年信心をする。お参りをして来ておっても、その、一つも焦点に向かっての精進じゃないから信心が進まない。いや、むしろ焦点がないというてもいい。
ただ、まあ言うなら、自分の我情我欲を満たして下さいという願いだけにとどまる。いわゆる神様というのはおかげを下さる、また私共としてはおかげを頂く側と、そういうふうに思っている人がありますねえ。お話がなかなか身に付かない、だから教会においてもやはりそうなんです。
昨日婦人大会で、信徒会長先生がご挨拶の中に、ある教会に行って、まあこれは合楽の信者さん方でしょうね。行って何か信徒会の時に、その、難儀のおかげで、まあ、信心が進むとね。難あって四神様は喜べとおっしゃる。教祖様は、「難はみかげ」とこうはっきりおっしゃられておられるけれども。そんなことのあろう筈はないて、難儀は難儀だと、苦しい時は苦しいんだと。苦しい中に喜びを分かれなんてんおかしな話じゃないかと。今とにかく難はおかげと言って、おかげを頂いておる人達から聞いたら、まあ本当に、まああの無茶のことを言われた先生だなあというような意味のことを言われた先生のあったことを、挨拶の中に話しておりました。
合楽の場合なんかは、もう絶対神愛というね、論理からまいりますと、難はないです。一切神愛なんです。それを分かろう分かるまいが、私が一生懸命皆さんに聞いてもらうですから、聞く人のその程度程度に応じてね、まあ響きが違うでしょうけれどもですね。
ですから、やっぱりそういうお教会では、難は難です。いつまでもお教会自体が、難儀な状態の中にあるようですね。それを、おかげとも神愛とも分かろうとしない。難は難です。けれどもね、段々信心を進めてまいりますと、分からして頂きますと、先ずは、なら親の心が分かり神様の心が分かる。
四神様のお言葉の中にね、「苦しいからと言うて、泣いて頼む氏子はあるけれども、神様のお心が分かりましたと、泣いて縋る氏子が少ない」という意味のことをおっしゃっておられますね。「苦しいです。けれども親神様は私よりもっと苦しんで下さるのにちがいはない」と言うて涙をこぼす氏子がおかげを受けるという意味なんです。
神様の心が分かってね。成程、痛いことは痛い、苦しいことは苦しい、難は難だと、ね。けれども、本当にそれが、まあ体験に体験を積んでいくうちに、成程難というものはないんだな。難はみかげだな。むしろ、難の時にあって喜べれる心を日頃作っておかなければいけないなということになるわけですよね。
だから信心というのはね、その辺の頂き方というか、信じる度合いが各自各自のおかげの度合いにもなってくるし、また、教会で言うならばね、守り守りの力でというのは、なら難儀なら難儀をどの程度に神愛と頂いておるか。いや、神愛とは頂かん。けどやっぱ神様だから難儀だから助けて下さい助けて下さいとは言っておるけども、神様の心を分かろうとはしない。という程度のやっぱ願うからおかげには成りましょうけれども、これでは信心は進みませんですね。
難儀のまあ実相というか、その実態というものを、いよいよ極めてまいりますと、まあ合楽で言うふうに言うと「神愛」。その神愛と分からせて頂く手立てが御理念に、まあ言うならば縦横無尽に説いてあるですね。合楽では自分が実感として頂けんでも分かるわけです。成程、私共の行く手には恐いものは無いとか、難儀はないと。恐いと思うておったのは迷いである。難儀と思っておったのは神様の親心であり、神愛の現れだというふうに、こうまあ分かって行かなければならんように合楽では説くわけです。ですから、そこに精進を致しておりますと、それが実感として分かってくるようになる。難、即おかげね。 昨日も福岡の方から参って来ます久保さんという方が、昨日一日御用頂いて、なんかそこの溝で、なんか鎌で草を刈るかなんかしておられたんでしょう。えらい足に深くこう鎌で切り込まれたとこう言うわけです。けれども、もう本当におかげを頂いて有難い。まあ言うならば大難を小難でおかげ頂いた。日頃稽古が出来とるから、おかげと言える。すぐそこに病院がありますから、まあ病院で縫うてもらうかどうかして見えたんでしょう。すぐ病院から、あの、御礼に出て見えられたんですけども。「本当おかげ頂いて」とこう言われる。「御用さしてもらいよってから怪我した」と言いたいようなものが、こうみじんも感じられない。だから私も、「そりゃあ大変でしたね」とも言わなきゃ、「そりゃおかげ頂きましたね」でまあいいわけですね。
もうとっさの場合、私共の心の中に一つのね、心のまあ感じというか、ひらめきでしょうね。果たしてそういう時に、心にどう、おかげ頂いたとこう感じるかね、御用さしてもらいよるとにこういうことがおこったと感じるかね。まあいろいろその感じ方がね。日頃やっぱ稽古さして頂いとると、いわゆる、おかげをおかげと実感出来る。心にそのひらめきがね、これはどうしても、いわゆるひらめきですから、心がやはり神様へ向かって、いわゆる日頃の精進をしておらんと、そのひらめきにはなってこない。難儀は難儀だと見る人、難儀を神愛と、まあ極端から極端な見方ですけれども。
私共は、何と言うても、教祖の神様のお言葉を実験実証していくことにつとめておるのですからね。やはり信心がない。また薄いものは難儀と見るでしょうけれども。後々分からして頂けば頂くほど、難というものはないと。あるものは神愛だけだと。いわゆる一切神愛という頂き方が出来るところにです。その頂く相違点ですね。その違いが、いわゆる御比礼の違いになり、おかげの違いになってくるんだと思うのですね。
だから、難儀を難儀と見るのも嘘ではない、やっぱ難儀は難儀です。けれども、信心の稽古をさして頂いておりますと、私共の心のひらめきというものがね、神様に、さあとこうおかげに響いて行く。おかげと実感するかね、難儀と感じるか、その辺のところが、これはまあ、教えて出来る。分かるじゃないけれども、稽古していくうちに、そういうものが段々出来てき、備わってくるのじゃないでしょうか。
まあ、今日の御理解は、取次者に対する御理解でございましょうね。守り守りの力で比礼が違うのだから、、守り守りが力を受けなければね。なら力を受けるために、言うならば精進する。だから、なら精進すると言ってもね。焦点を間違えての精進。間違ったところに焦点をおいていくら頑張ったところでね、それは大したことはない。
合楽の場合はその焦点を、いわゆる一切神愛というところに、焦点をおいて、それに近づかせて頂こうとする手立てが、日々のお互いの修行である。そして、分からして頂くことは、成程神愛だな。神様の心をいよいよ深く広く分からして頂くことが出来る。守り守りの力でということは、お互い信奉者一人一人の力によっておかげが違うのでということもだから言えるのです。
なら、合楽の場合はね、一切神愛一切神愛とこう言われるけれども、本当にどこまでそれが一切神愛と分かっておるか。分からんにしても、これだけは絶対のもんなんだよね。一切神愛、だからその一切神愛という焦点を間違いなくおいて、そしてそれに精進していくね。本当に一切精進という私共の心が開けて来る時に、私共の前にはね、難儀なことはなくなる。困ったことはなくなる。私共の言うならば迷いが、本当な正しい信心と申しましょうかね、が育ってくるのです。
お互いが一切神愛ということを、まあ勉強しておるわけですけれども。一つの事柄に対してね、どの程度に一切神愛を分かっておるか。大体頭で分かっておるようにあるけれども、その時々の実感、その時々の言うならばひらめきによってです。私共の信心がどの程度であるかということを知るべきだと思うですね。
どうぞ。